魅力あるもの、キレイな花に心を惹かれるのは、誰でもできる。 だけど、色あせたものを捨てないのは努力がいる。 色のあせるとき、本当の愛情が生まれる。
人生で一番楽しい瞬間は、誰にも分からない二人だけの言葉で、 誰にも分からない二人だけの秘密や楽しみを、ともに語り合っている時である。
愛せよ。人生においてよいものはそれのみである。
そなたのために、たとえ世界を失うことがあっても、 世界のためにそなたを失いたくない。
恋愛は永遠である。それが続いているかぎりは。
愛する者と一緒に暮らすには一つの秘訣がいる。すなわち、相手を変えようとしないことだ。
人生における無上の幸福は、自分が愛されているという確信である。
友情が恋愛になるときには、二つの川のように混ざりあり、 有名なほうが他方の名を吸収する。
女達は、なぜとか、どうしてとかいう事を抜きにして愛されることを願う。 可愛らしいとか、善良だとか、上品だとか、頭がいいとかいう理由ではなく、 彼女らは彼女自身でありたいからだ。
二十代の恋は幻想である。 三十代の恋は浮気である。 人は四十代に達して、 初めて真のプラトニックな恋愛を知る。
女が君を愛すると誓っても、必ずしも信じるわけにはいかない。 しかし君を愛さないと誓った時にも、やはり信じすぎないほうがよい。
人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだと、 したり顔して教える苦労人が多いけれども、私はそうではないと思う。 私は別段、例の唯物論的弁証法に媚びるわけではないが、 少なくとも恋愛は、チャンスではないと思う。私はそれを意思だと思う。
結婚生活を末永く導いてゆくものは、普通の意味での恋愛でもなく、 また情痴の世界でもなく、それらを経た後に来る慈悲 ――人間のあるがままの姿への愛情であろう。
愛されているという驚きほど、神秘的な驚きはない。 それは人間の肩に置かれた神の指だ。
恋は富よりもはるかに強い。 けれど恋はその力を借りなければならない。
恋は多く人生の苦痛を包むオブラートなり。
もし神が女性に男性を支配させたいと考えていたなら、 神はアダムの頭から女性を創ったであろう。 また、もし神が女性を男性の奴隷にしようと考えていたなら、 アダムの足から女性を作ったであろう。 だが、神はアダムのわき腹から女性を創り給うた。
恋というものは心から心に至るもっとも短い道である。直線である。
女の喜びは男のプライドを傷つけることである。
女は自分の美点のために愛されることにときとして同意するが、 常に好むのは、自分の欠点のために愛してくれる人のほうだ。