恋をするとだれでも自分を欺くことから始まり、 他人を欺くことで終わるのがつねである。 これが世の、いわゆるロマンスである。
愛情のない結婚は悲劇だ。 しかしまるっきり愛情のない結婚よりいっそう悪い結婚が一つある。 それは、愛情はあるが片一方にだけ、という場合だ。
男は退屈から結婚し、女は好奇心から結婚する。そして双方とも失望する。
正しい結婚の基礎は相互の誤解にある。
女は愛されることを求め、理解されることを求めない。
女は男に欠点があるからこそ愛するのだ。 男に欠点が多ければ女は何もかも許してくれる。 我々の知性さえもだ。
現代の女性は、あらゆることを理解する。 ただ、自分の亭主のことだけは理解しない。
軽い苦痛と浮気な恋だけが永い生命がある。
お前の唇は苦い味がした。 あれは血の味だったろうか?……いや、ことによったらあれは恋の味かもしれない。 恋は苦い味がするというから。
男はどんな女といても幸福にいけるものです。彼女を愛さないかぎりは。
男はあまりに早く人生を知りすぎ、女はあまりに遅く知りすぎる。
若いときの自分は、金こそ人生でもっとも大切なものだと思っていた。 今、歳をとってみると、その通りだと知った。
楽観主義者はドーナツを見、悲観主義者はドーナツの穴を見る
女が再婚する場合は先夫を嫌っていたからで、 男が再婚する場合は先妻を熱愛していたからだ。 女は運を試し、男は運を賭けるのだ。
楽観主義者はべーグルを見て、悲観主義者はその穴をみる
他人の悲劇は、常にうんざりするほど月並みである。
自分自身を愛することは、 一生涯続くロマンスを始めることである。
男と女の間に友情はあり得ない。 情熱、敵意、崇拝、恋愛はある。しかし友情はない。
男の人って、一度女を愛したとなると、その女のためなら何だってしてくださるでしょ。 たった一つ、してくださらないもの、それはいつまでも愛しつづけるってことよ。
男は常に女の初恋の人でありたがる。それが男の無様な虚栄である。
「私は自分の才能を作品に注ぎ込み、自分の天才を人生に注ぎ込んだ」——そう豪語した唯美主義の寵児、オスカー・ワイルド。彼はその華麗な衣装と、機知に富んだ警句で、保守的なヴィクトリア朝の社交界を魅了しました。『サロメ』や『ドリアン・グレイの肖像』など、美と退廃をテーマにした作品は今なお色褪せません。彼が放った言葉は、社会の偽善を暴き、人生の真実を皮肉とユーモアで射抜きます。彼の天才が凝縮された言葉の数々が、あなたの人生観を変えるかもしれません。